桜庭 信正(さくらば のぶまさ、1570年 - (1614年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

出自

南部家譜代の家臣の家柄である。遠祖桜庭良綱は南部光行に従い、甲斐国より糠部に下向した。安芸氏・福士氏・三上氏と共に、「南部四天王」の並び称された。盛岡藩南部家では代々重臣として続いた。 1504年頃、津軽に12人の館主が派遣され、その中に三上惣右衛門らと共に先祖がおり、東目屋桜庭館 に土着し、太郎左衛門を襲名した。

略歴

1571年、大浦為信に仕えて、石川城攻めで旗本衆、さらに大光寺城攻め、大垣城攻めに参陣した。長男左衛門次郎正次(櫻庭院殿忠山道義大居士)は大垣城攻めで討ち死にした。桜庭村の喜山庵に、長男供養のため、寺領六石を寄進し、次男信光の代に信正の戒名から桜庭山陽光院と名づけられた。後に広船城、沖館城を拝領した。跡を継いだ信光は別浦太郎左衛門(別浦とは広船、沖館のこと)とも称した。

脚注

参考文献

  • 「青森県人名大事典」1969年 東奥日報社

那須川天心、公開練習! 桜庭和志、所英男から戦術を伝授! RIZIN 2017 in FUKUOKA 秋の陣 RIZIN

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